いい大人のための性教育 (1)

書いた人: 妻

 こんばんは、今日はからあげを食べました瑞谷です
 揚げものの中で好きなのはカキフライ、コロッケ、てんぷらです。要するになんでも好きなのでは……
 台風の日はコロッケを食べたくなりますね。

 

 また漠然としたテーマを取り上げようと考えました。

「性教育とはなんなのか?」

 性教育と聞いて、皆さんはどんなことを教えられる様子を想像するでしょうか。
「おしべとめしべがくっついて新しい花が咲く」?
「男性と女性の生殖器それぞれがあって、精子と卵子が出会って受精卵ができる」?
「避妊の方法とはこのようなものが」?

 どれも正解であり、そしてすべてを合わせても、とてつもなく不足していると思います。

 性について教えるということはとてもデリケートなことと、大人は言います。
 そして子供側も、伏せられた触れてはいけないブラックボックスを頃合い見計らって開示されるような、子供は触れてはいけない恥ずかしいモノだからと日夜言われ続けたものの正体をとうとう明かされるような、そんな妙に気恥かしいような感覚になるんだと思います。

 でもそれは、果たして正しいことなのでしょうか。そもそも「正しい」って、どういうこと?

 おそらく、一般的な大人の人は「性教育」と言われると、「セックスの仕方と避妊の方法」を思い浮かべるのではないかと思います。
 実際にそれは間違ってはいません、とても重要な項目になると思います。

 しかし性教育とは、それがすべてではないのです。

そもそも性別とはなにか?

 人間という生物は、どういう生態系の結果かはわかりませんが、比較的多様性を広く持った動物で、またほとんど唯一「言語」を扱い、知的文化的に発展しました。

 この最初の「言語の開発」というものはとても重要で、要するに「言葉がなければ思考や想像、文化の発展はなかった」のです。

 試しにやってみて下さい、何かを考える時に、頭の中で言葉を使わず、またもちろん口にも出さずに思考してみるのです。おそらくは全然まとまらずに、また気が付けば言葉の上で色々と考えてしまっている自分に気付くことでしょう。

 言語の発達から、文化的な素地が出来、結果他の動物と比べ物にならないほどの「多様性を受け入れられる生態」になったのだと思います。

 その多様性のうちの、ものすごく基本的な分類が「性別」です。

生物学的に

 身体的な分類としては、多くの場合「男性」「女性」に分かれます。いわゆる「生物学的には女」みたいな言い方をする場合のそれです。
 しかし、中には生育期のホルモンバランスなどが原因で発達途中から頓挫、あるいは逆側に発達をしてしまうのか、身体そのものがどちらともつかない形成をする場合があります。

 そういうケースは大昔から発現していたそうで、大抵の場合にはご両親と相談して「生殖器がきちんと存在するであろう性」に合わせる等の判断で、外科的な手術が子供のうちに行われてきたそうです。(最近は早期の手術はよくないとしばらく様子が見られる傾向にはあるそうです)

 昔の言葉では「半陰陽」というような言い方をされました。
 発現の仕方としては、外性器の見た目は男性ぽいのに、実は生殖器そのものは女性として発達している、あるいは逆のパターン、そしてどちらともつかないパターンなど、多岐に渡るようです。

アイデンティティ的に

 性同一性という言葉を聞いた事があると思います。

 大雑把に言うと「自分の性に違和感がないか」みたいな感じに捉えたんで良いと思います。例えば自分自身の「内面的な性別」と、「身体的な性別」が一致しない場合、それを「性同一性障害」と言います。あくまで一例で、他にも色んなケースがあります。

 性同一性障害の発生には色々言われてはいるのですが、明確にはされていません。
 自認については、「性別とはこういうものだ」という社会的な認識、例えば……

「女の子はこんな服が好き」
「男の子はこんな玩具が好き」
「女の子だからこんなことをしてはダメ」
「男の子だから泣くのは我慢しなさい」

 というような、性別による規範性、「性役割」との差異、違和から障害を認識する……ということが多いようです。

別にどっちだっていいと思うんだけどなあ

 twitterでも時折「女の子になりたい」「男の子になりたい」という人が、女装、男装をしている写真を上げられたりという光景を見ます。
 SNS特有の限定的な光景かもしれませんが、それでもそんな風にオープンにできるようになってきたであろう社会は、大変に喜ばしいことだと思います。

 少し前だとIKKOさんや、振付師のKABA.ちゃん、いわゆるオネエ系キャラが人気になった事もありました。

 でも私の父親世代だと、そういう人達を「気持ち悪ぅ」と言い捨てるような人が多かったです。
 その度に私は「自分のツラを棚に上げてよく言うよなあ~(私も自分の親に対してよくそう思うよなあ~口には出さないけど)」なんて思っていました。

 でも、どちらだって、どこに属したって、いいんじゃないのかなあ。なんてことを私はいつも思っていました。
 身体的な分類と精神的な分類が一致しようがしなかろうが、どちらに向かおうが、自分が生きやすい楽しい方を選べるなら選んだんで、それでいいんじゃないでしょうか。

 そこにこと細かにこだわる理由って、なんなのでしょうね。特に私より上くらいの世代が、そういう「この人は男か女か?」みたいな問いを必ずするようなイメージがあります。

性とは何か?を問う時

 

私自身は明確に私自身を「女」だと認識しています。でも、自分自身を「女」と認識する要素って、一体なんなのでしょうか。私は明確と書きながらも、一体何を持って「明確」と言っているのか、とても漠然としていて上手く説明ができません。

 そして、性同一性障害ではない人の方が、自分自身の性別について「あまり深く考えてこなかったのではないか」と思っています。

 いえ、時々は「変だな」と思った事があったかもしれません。
 例えば「女の子だからこんな服が好きだよね」と言われたり、「男の子だから泣かないの」と言われたり。
 でも、「そういうものだ」で終わっていたのかもしれませんね。

 先の「女の子になりたくて女装をする人」は、どうして「女装」という部分にこだわるのでしょうか。そういう方は大抵「かわいらしいスカートを履いてお化粧をして……」という感じのことをされています。まるで「女性の記号を身にまとう」ようです。
 それはつまり……これは決して否定ではないのですが……「誰よりも性役割にこだわる人」に私には映っていて、逆に不自由のように見えて、少し違和感があります。

性教育の第一歩とは「自分を知り愛すること」ではないか

 性教育とは「セックスと避妊の仕方を教える教育」ではありません。正確には、それだけではありません。そんなのは後続に教えなければならない沢山の事の内のひとつに過ぎません。

 自分自身の性を知り、身体を知り、自己肯定感、自分を大切にする方法、そして、自分を好きになる方法を教えるということ。それこそが、性教育の第一歩ではないかと、私は思っています。

 そしてその先にあるものは「パートナーを大切にできること」だと思います。自分を大切にできない人間が、他人を大切にできるわけがないのですから。

 

 性別についてのお話をここまで書いてきました。
 単純に「男女の二種類」ではないということ、世界は多様に満ちているということをまず知り、そして「自分の性別を自認している要素はなにか」を考え始めると、この「性別という分類」はとてもアヤフヤで曖昧なものだと感じられるのではないでしょうか。

 「性別」なんていう曖昧な括りの上で、「異性を愛することが正しい」なんてジョーシキ的な言葉は、途端に陳腐な言葉のように聞こえては来ませんか。

 

 このブログでは主に「男性の身体と女性の身体のセックスについてのお話」を書いています。ですが、特に夫の前戯についての記事なんかは「それがどちらになっても適用できる」内容になっていると思います。

 でもこのブログで書いていることなんて、あくまで「人と人との性の形の一形態」に過ぎないのです。

 

次回 「いい大人のための性教育 (2) 誰の為にする?


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オナホール2

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