いい大人のための性教育 (3)

書いた人: 妻

第1回 「いい大人のための性教育 (1)
第2回 「いい大人のための性教育 (2) 誰の為にする?

 

 昔々、ウーマンリブ運動からの「性の解放」についての余波が日本にも押し寄せた頃、アホな大人はこぞって言いました。「みんな誰とでもセックスしたらいいって、頭おかしいんちゃう」

 一部の偏ったメディア報道などから捻じ曲げられ、多くの大人に違う意味合いで理解されてしまった「フリーセックス」という語の元々が本来指していたものは「性別的な役割からの解放」という意味でした。

 しかし、私の親くらいの世代の人に「フリーセックス」についてを問えば、どこをどう捻じ曲げられたのか「スウェーデンはフリーセックスの国だから行ったらめっちゃヤレる」みたいなことを言われるのではないかと思います。(実際問題スウェーデンはそんな国ではありません、性教育が充実している国ではありますが)

 実際にはその中に「セックスについて」も含まれていたかもしれません、海外でも「女性は貞淑であれ、結婚前のセックスなどもってのほか」という抑圧が日本と同様に存在していたのですから。

ジェンダーフリーも和製英語だけど

 最近よく訳されているのは「ジェンダー平等」でしょうか。
「ジェンダーフリー」というと、日本では過去の学校教育界隈であまり良い印象が残っていないのではないでしょうか。
 例えば「男女混合でやたらと身体をくっつけた体操をする」とか、「過激な性教育が~」とかなんとか。それら過去の事例は男女平等をイイカゲンに取り込んだ例だと思っています。

 ジェンダーとは、社会的な性別とか、精神的内面的な性別のことを指します。
 社会的に女性はこうあるべきだとか、女性とはこういう性であるだとか、皆さん自覚有る無しに、色んな「規範」に引っ張られ、時に守られ、あるいはそれ自体が人生の指標になったりと、色々定義されてきたのではないかと思います。

 過去、アメリカが戦争をしていた頃、男性は徴兵され女性が工場の作業を担うようになった時代がありました。そして戦争を終え、女性達は「私達も男性と同じ仕事ができる」と立ち上がったのです。これが「ウーマンリブ」でした。
 それまで女性は「家で家事をして子供を見ていろ」という、いうなれば社会的な抑圧、規範があり、それについて女性達はどこかに疑問を抱いていた為に、起こった運動なのでしょう。

男女平等は「同じに扱うこと」ではない

 男女平等というのは「男女全く同じ扱いにするべき」ということではないのです。

 そもそも男性と女性では、身体構造に差があります。物理的な筋肉量差、平均身長・体重の差、生理的な反応の違いなどなど、まったく同じに扱えない実態が存在します。

 例えば、月経。
 月一回とはいえ、外性器からの出血は無視できない生理現象です。多い人は1時間に一回トイレにナプキン交換に立たなければならない日がある程です。
 中には文字通り動けない程の生理痛を抱えている人もいます(そういう場合は婦人科に行った方がいいですが)。

 筋肉量差は単純に力仕事の効率に繋がることと、それに加え身長体重差は体力面に繋がります。

 そして決定的な違いとして「出産」があります。
 うちの母親はよく「出産ギリギリまで仕事していた」という過去話をするのですが、実際問題それができる女性とそうでない女性がいます。出産で仕事のキャリアを失う社会は一部改善されつつあるものの、まだまだ続いています。

 この「差」を「どう埋めるか」「どうフォローして社会的に利益を生み出せるようにするか」が、平等に繋がるのです。

「現場は出産で休まれたら仕事が回らないから困る」
 その解決を考えるのは社会全体であり、政治であり、そのフォローを受けた個々の会社であって、女性個人だけの問題ではないのです。

 また、ジェンダー平等を目指す社会は、結果的に全体の幸福度が上がります。これは特にジェンダー平等への理解が進んだヨーロッパでの結果です。
 経済的には、女性・男性への個別フォローを増やすことで社会全体の「生産力」が必要フォローのコストを上回り、良い結果になるわけです。

男性にもしんどいことは沢山あった

 男性社会だからといって、男性ばかりにメリットがあったかというと、実際はそんなこともなく、過去の男性も、今の男性も、きっと「男性だから」としんどいことは沢山あったし、今もあるのだろうと思います。

男性だから収入を高くしないといけない
男性だから正社員じゃないとダメ
会社で責任ある仕事をしなければならない
結婚していないと一人前じゃない
何歳で童貞は恥ずかしい」……

 別に、社会人になったからといって全員が全員出世を希望するかというと、そうでもありません。ある程度の収入が得られたらそれ以上は別に要らない、仕事時間を増やしたくはないと思う人間だっています。

 結婚することが必ずしも幸福だとは思いません。自分の人生において必要なものはそれぞれ違います。

 男性だから、女性だからという規範を無くすことは、結果的にそのどちらもが幸福になるということなのではないでしょうか。
 もちろん、皆「したいこと」はすればいいのです。自分は出世がしたい、お給料を上げたい、ならがんばりましょう。頑張って結果を出せば評価が付いてくるようにしましょう。それについて性別は関係がありません、関係ないようにしなければなりません。

 男性・女性という性別が「ひとつの多様性」である時、「それ以外の性別の人」や「障害を持った人」という「多様性」もまた、同じように扱われるべきです。
 社会的に、それら多様な分類を踏まえた上で、雇用の機会均等を図ろう、それぞれ得意な部分を生かして仕事ができるようにしようとすることを「ダイバーシティ」と言うようになりました。

それでもなんだかんだスカートが好き

 私の両親は、妹が小さい頃「戦隊モノ」が好きでパジャマや玩具を欲しがった事、ピンクより青を好んで選んでいたことを一切咎めませんでした。面白がりはしていましたが……

 逆に私はどちらかというと「いかにも女の子らしいもの」が好きで、最終的にはフリフリヒラヒラ系ファッションに移行するのですが、それについても面白がりはするものの基本的に放置してくれていました。

 今思えば、そういう妹の個性をある意味受け止めていた? 両親は、時代を考えても割とすごいなと思い返します。

 また、規範性に囚われないということは、逆のものを選ばなければならないということでもなく、ヒラヒラフリフリが好きなら、別にそれでいいじゃない。ピンクは女の子の色? それが正しいかどうかはわからんが、ピンクは割と好きだ。それでいいじゃないかと思います。
 でもそれを「女の子はピンクが好きでしょ」と押し付けるのは、やっぱり何か違いますよね。「女の子じゃなくて、私が好きだ」なわけですから。

 ちなみに私は今もピンクは好きですが、ピンクと一言で言っても色々とあるので、いわゆるダサピンクと言われるアイテムに使われるピンクは本当にダサいので、好きではないです(ピンクの花柄毛布とかものすごく嫌い)。

男性だけの問題でも、女性だけの問題でもない

 先日「緊急避妊薬ノルレボの市販薬化について全力で答えるQ&A」というサイトを作りました。長くお世話になっているrurikoさんの打診で、拙いながらも友人と描き上げたものです。

 その中の設問のひとつ「男の為にセックスするんだから男に責任を取らせろ」という一文は、twitter界隈で何度か見かけた言葉でした。ちょっと過激派の方が避妊についての主観を語られたものですが、恐らくご本人は「社会的にはそれが正しい」と思われておっしゃった事だとも思います。

 果たして、それは本当に正しいのでしょうか。
 「どれだけ知っても学んでも、セックスをしたいと思えない女性がいる」のなら、その人にとっては「男性の為にする」になるのかもしれませんね。

 そういう価値観が構築された二人ならば、「私はそもそもどう頑張ってもしたいと思えないので避妊の責任とコストはあなたが取って、その上でなら私はセックスをしてあげられる」というような遣り取りがあっても、おかしくはないかもしれません。

 そんなバランスは個々の問題なので、そのカップルにとってどれが正しいとか間違っているとかはないと思います。ただそれが「社会的には“男性が”避妊をするべきもの」という主語で話をするとなれば、いやそれは違うよということです。

 

 私には、それら避妊の問題も、そしてジェンダーとしての平等さも、すべて何かで繋がっているように思えるのです。

 

前回 「いい大人のための性教育 (2) 誰の為にする?
次回 「いい大人のための性教育 (4) お姫様はもういない


にほんブログ村 大人の生活ブログへ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。